「不気味の谷」 by 森 政弘
今から40年以上前の1970年、当時、東京工業大学の教授だった森政弘氏は、人が人間に似たロボットに対してどのような反応を示すかについて、「不気味の谷」と題したエッセイを書いた。それによると、ロボットが徐々に人間に近くなると、人のロボットに対する「親和感」が増すが、ある時点でその親しみが急激に不快感に変わり、「谷底」に落ち込む。
近年、実際に人間に近いロボットの開発が進み、「不気味の谷」の存在と意味がその重要性を増している。ロボットの領域だけでなく、映画やゲームの分野でも、「不気味の谷」が世界的に脚光を浴びるようになり、このたび、同氏の当時のエッセイを英語に翻訳し、学会誌「IEEE Robotics & Automation Magazine」で発表するにいたった。
当然、「不気味の谷」の原文を日本語で読みたいという要望があった。
以下の文章は、森政弘先生がお書きになり、1970年にエッソ・スタンダード石油の広報誌「Energy(エナジー)」(第7巻第4号、上の写真は表紙)に掲載されたものです。著作権を保有する森先生ご本人の了承を得て、歴史に残る文章をここに転載させていただきます。
+*+*+*+*+*+*「不気味の谷」*+*+*+*+*+*+*+
親和感の谷
増加関数という数学の用語がある。これは変数 x が大きくなるにつれて、その関数 y=f(x) も増大してゆくという関数を表わしている。たとえば、努力 x が大きいほど、収入 y は多くなるとか、アクセルペダルを深く踏むほど、自動車の加速は大きくなるなど、この例である。この関係は、日常のいたるところに見られるもので、われわれにとってはたいへんわかりやすい。いやむしろ、日常の多くがこうであるため、人間はすべての関係はこの単調増加関数であるものと勘違いしているようである。人生への処し方において、押しの一点張りで、引きの姿勢の有効性が理解できない人々が多いという事実も、これを裏付けているかと思われる。このためか、ひとびとは増加関数では表わし得ない現象に直面するとき、とまどいを見せるのがつねである。
ところで、山登りは、この増加関数でないものの一例である。頂上への距離 x と登山者の(位置としての)高さ y との関係がそうである。頂上を極めるためには登るいっぽうではなく、谷を越えるために下る必要もある。
筆者は、ロボットの外観をより人間に近づけるという登山の道程においてそのロボットに対して人間がいだく親和感に、この谷のような関係があることに気がついた。筆者はこれを「不気味の谷」と呼んでいる。
今日、省力化の立役者として工業用ロボットが関心を集めているが、周知のとおりそれには顔も、足もなく、ただ回転したり伸縮したりする腕があるだけで、外観は人間とは似て似つかぬ形をしている。もちろん、この種のロボットは機能一点ばりの設計ポリシー、つまり機能さえ人間に似れば外観はどうでもよいという立場から生まれたものだから、当然その姿の人間に対する類似度は評価の対象にはならないのではあるが、ことさら図1のグラフ上で位置づけるとすれば、それは原点の近傍にくる。つまり、工業用ロボットは、人間に対する外形上の類似度は極端に低く、したがって人間一般はそれには親愛感を(注1)ほとんどいだくことはないのである。これが、おもちゃのロボットとなると、機能よりも外見に重点が置かれているためか、機械的なゴツゴツしたものではあるが、顔ひとつ、手二本、足二本、それに胴体という、大まかには人間に似た外形をそなえてくる。子どもたちはそれら小形の人造人間に対して、かなりの愛着を感じているらしい。ゆえにおもちゃロボットは、図示のところに位置すると言える。
いうまでもなくロボットの努力目標のひとつ(注2)は人間そのものにあるのだから、その外観を、より人間らしくしようとする努力は所々方々で見うけられる。たとえば腕などは、鉄の丸棒にネジがたくさんついているものから脱皮(というよりも着皮)して、ふっくらと肉付きのあるはだ色のものになれば、相当に人間らしくなってくる。したがって親和感もそれに応じてあがってくるのは当然であろう。
ところで読者は、程度の差こそあれ、手のない、あるいは足のない身体障害者に接しられた経験を持っておられるだろう。それら身障者が義手や義足を着けているのを見て、いたいけな感じをいだかれなかったかたはあるまい。その義手もこのごろでは製作技術が格段に進歩して、ちょっと見たところでは、それとはわからぬ程度のものまでもができている。手の表面には腱や血管のふくらみまでが付いており、指には爪はおろか指紋までもが見られるのである。色は、本物の手よりもややピンクがかった、ちょうど風呂のあがりのような色である。だいたいの感じとしては、本物の歯と入れ歯との差ていどにまでは義手の外見は進歩してきたと言えそうである。しかしこの種の義手は、一見生の手のように見えるのではあるが、かえってそれだけに、それが作りものであることが判明したとたん、気味悪い感じにおそわれるのである。握手でもしてみれば、その骨のないふにゃふにゃした握感と、ひんやりと冷たい感触とがミックスされて、ヒャーッと飛びあがってしまう。こうなると親愛感どころではなく、不気味というほかはない。数学的には、不気味は負の親愛感として把握してよいから、この種の義手――一般には装飾義手といっている――は図1では、類似度は大きいが親和感はマイナスという谷底に位置することになる。これが「不気味の谷」なのである。
文楽の人形というものは、至近距離で見れば、それほど人間との類似度は高いとは筆者には思われない。大きさにしろ、膚のきめにしろ装飾義手には及ばないといえよう。しかし、適度に離れて、たとえば観客席から眺めたような場合には、その寸法の絶対値などという要因は昇華され、逆に目や手の動きをも含めた総体的な類似度はきわめて人間に近いのではなかろうか。そして、それがかもし出す芸術に人間が酔うという事実からも、親和感は高い値(もちろん正の側の)にあるといってよいだろう。
以上ざっと述べたところから、読者には筆者のいう不気味の谷というものの概念は理解していただけたものと思う。そこで以下では、これについてややつっ込んで、動きと不気味の谷の関係を考えてみたい。
(注1)とはいっても、一般機械とくらべれば、相当に人間に――とくにその腕に――近いものではある。
(注2)ロボットの醍醐味は現実の人間を超えた、つまり、人間を拡大したところにあるとする立場もある。
「動き」が加われば
動き、というものは、人間を含めて動物一般の、したがってまたロボットのいのちなのであるが、この動きというファクターが加わると、図1の山はいっそう高く、また不気味の谷はさらに深みを増すのである。この様子を表わしたのが図2である。たとえば、仕事がなく電源を切られて静止している工業用ロボットは、たんなる油くさい機械でしかないのだが、適当なプログラムを与えられて人間の手の動きに似た動き――これにはその速度とともに加速度と減速度が似る必要があるが――をしている場合には、われわれはあるていどの人間的な親和感をいだくのはつねである。逆に不気味の谷に位置する義手に動きが加われば、その不気味さはたいへんなものとなる。ご存じの読者もあると思うが、今日の技術では義手の指を自動的に開閉することは困難なことではない。図3は現在市販の、指が自動的に開閉できる義手としては最高のもので、ウィーンのあるメーカーの製品である。動作原理は、下腕を切断した人の残りの筋肉でも、物体を握ろうと意志すれば収縮するのであるが、その場合残った腕の皮膚面に筋電流という微弱電流が流れる。それを皮膚にとり着けた電極を介してとり出し、電子回路で増幅して、義手内の小形モーターを回転させ、指を開閉するというものである。この電動義手は、動きが可能であるだけに、へたをすれば、一般健康者には極度に気味悪がられるのが事実である。うす暗い場所で、このウィーンハンドで女性の手でも握ってみるがよい。金切り声は確実である。
義手でさえもこうである。ましてロボットとなればその不気味さはひとしおであろう。夜中にふと目ざめた技工が、仕事場のマネキン人形の群の中に物探しに下りたとき、彼女らが動きだしたならば、まさに怪談めいてくる。
万国博を契機として、ロボットもなかなかこったものが作られるようになってきた。なかには、その顔をほほえむことができるようにしてやりたいからとて、二十九対という人間と同じ数の人工表情筋を顔面に組み込んだという精巧なものまで試作されている。その作者の話によれば、ほほえみというのは一連の動的な顔のゆがみのシーケンスであって、その速度が重要なファクターとなるのだそうである。もしも速度を半分に落として、ゆっくりとほほえませでもしようものならば、ニッコリどころではなく、ニヤーッとした、なんともうす気味悪い笑いとなってしまうということである。
このように、ロボットとか人形とか義手とかいうものの場合、人間に対する類似度がかなり高い状態にある時には、一歩ふみはずせば、不気味の谷に急転直下おち込んでしまうのである。
デザインによる脱出
われわれはロボットや義手の設計・製作に際して、このような不気味の谷におち込まないことを願う。そして筆者は、なまじ類似度を上げたがために危険状態に陥るよりは、ひかえ目な類似度において相当の親和感の得られる、不気味の谷の左側の山の頂上付近を推奨したいのである。いやむしろ、類似度とは異なった他の次元の軸上において、つまり、ことさら人間に似せないという非人間的デザインによって、安全な親和感が創造できるという可能性を予感する。このことを、デザイナー諸氏にはとくと考えていただきたいのである。適例はめがねである。めがねは、生の眼には似せないというデザインによって、結果としては魅力ある眼を創造していると見てよい。ゆえにその姿勢は義手に生かされてしかるべきなのであろう。そうすれば、いたいたしい義手ではなく、カッコイイだて義手が流行するようになるにちがいない。
図4は、ある仏像彫刻家の作になる手の模型であって、その指の関節が自由にまげられるものである。これは、指紋もなく、色も木の素はだそのものではあるが、ふくよかな丸味と美しいそり工合とによって不気味さを感じさせないのである。ひとつの参考になるのではなかろうか。
「不気味」の意味
図2において、健康なわれわれは、後側(動きのある方)の曲線の右端の頂点で表わされている。もしわれわれが死ねば、当然のことながら、動くことはできなくなり、顔も青ざめ体も冷たくなる。ゆえに死という現象は、図2の後側の曲線右上の頂点から、前側の不気味の谷底への落下(破線)としてとらえることができる。ここで、この落下が後側の不気味の谷底へでなくて幸である。もしそこへころがり落ちるのであれば、動く死人という戦慄すべき存在が出現することになる。筆者はこれこそ、不気味の谷のもっとも奥処の秘密であろうと思っている。
われわれは、なぜこのような不気味という感覚を持ち合わせているのだろうか。それが人間に賦与された必然性は何なのだろうか。――これについて筆者はまだ深く考えたことはないが、それは自己防衛本能の重要な一部をなしていることだけは間違いないと思っている。(注3)
われわれは、ロボットの研究をとおしての人間そのものの認識のためにも、また非人間的軸上でのデザインによる人間的親和感の創造のためにも、この不気味の谷の地図を作りあげる精密測量に着手すべきなのであろう。
(注3)とくにそれは、風とか水とかいった類の、人体からかけはなれたものに対する防衛でなく、きわめて身近かな、たとえば死人とか異なった種とかに対する防衛のために用意された本能ではなかろうか。
(東京工業大学教授・ロボット工学)
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